2007年02月03日

【第029章】

 大野祥子のモデルとしての初仕事が「銀行」であったことまでは思い出したのだが、その先を書きあぐねていた。
 それがどんなものだったか、確かに何かキーワードがあったはずなのに、それが何だったか引っかかったままだったのだ。
 ある人からのメールで、記憶の氷が解けだした。

 それは今は合併統合でその名は残っていない「第一勧銀」のポスターだった。
 文学部の門から、例の「ルプティニ」までの短い道のりに、勧銀の、赤い店舗があったのを思い出した。
 祥子の写真は、そのウインドウに、どでかく貼り出されたんだった。
 その方からのメールは、ポスターの図柄にも触れていた。
「秋の落ち葉の景色の中で彼女がこちらを振り返り、その肩にはリスが載っていたと記憶しています」
 そうだった! リスだった!

 俺は当時、勧銀に口座を持ってはいなかったが、店に飛び込んだ。
 縦型のパンフレットにも、同じく祥子の姿を見つけた。
 たまたまそのときだったか、改めてだったか、千円を入れて勧銀に口座を開設したことを覚えている。
 
 俺たちは《初仕事祝い》をしたんだった。
 場所はいろいろ検討したが、あやうく馴染みの高田馬場になるところでなんとか思い直し、行きつけない赤坂の、あるイタリア料理店を選んだ。
 祥子のもとに、いつごろ、いくらくらいのギャラが、どのように支払われたのかは全く知らない。だがその日、祥子は勘定は自分が払うということを、あらかじめ何度も宣言していた。
 大人になってからならなんということもないのだが、レストランでの注文は緊張した。スプマンテ(イタリア産の発泡ワイン)なんていうものは思いもつかなかったから、あたりさわりのなさそうな白ワインを注文し、ホタテのカルパッチョや手長エビのグリル、そして牛ほほ肉のソテーのようなものを頼んだと記憶している。
 俺はそのころよく着ていた濃紺にピンストライプのスーツを着用し、祥子は胸元が広く開いた、焦げ茶色の、薄手のなめらかそうなセーターにタイトスカートだった。鎖骨の上に、細いチェーンネックレスが光っていた。
 ひとことで言って、祥子は短期間の間にとても洗練されたような気がした。
 高く結い上げた髪型も大人な感じに思えたし、化粧もあっさりと、しかし魅惑的に施されていた。
 
「あのポスターは素敵だったね」と俺は言った。「しかし、今の君とギャップを感じる」
「どういうこと?」食器を操る様は、さほど洗練されていないように見えた。
「悪い意味じゃないさ」祥子が身構えたようだったので、俺はほがらかに言った。「あのポスターの狙いは、いかにも清純な女の子だ。けど、いま俺の前にいる君は、ずいぶん大人っぽく見える」
「大人の街だと思ったから、一生懸命そうしてきたんだもの」
「でも、以前も同じようにできたかな」
「それはわからない。お化粧とかは、ある程度習ったのよ」
「すごくいいよ」
「ありがと」

 今なら間違いなく2本目のワインを頼むところだが、当時は二人で飲みきる自信がなかった。あるいは彼女の支払いに遠慮したのだったか、ウイスキーをショットで頼んだ。彼女も何かカクテルを頼んだ。今思うと、ヘンなオーダーだ。
 酔いが回ってきて、俺たちは少し騒がしくなった。というのも、彼女の話が面白かったせいだ。それは、そのときの俺にもはっきり自覚があって、
(こんなにも面白いことが話せるコだったかな)と思ったことだった。
 俺の知らないレッスンやオーディション、そして現場での話。祥子の世界は明らかにこれまでより広がって、それにともない、彼女の中で何かが開き始めているように思った。
 俺はすっかりリラックスしていた。
「ところであのリス」と俺は言った。「あれは剥製かい」
 《君の大好きな……》という台詞は飲み込んだ。
 祥子の目が一瞬光ったように見えた。
「違う。あれは生きてたの」
「生きてる? 生きてるリスがあんなにおとなしく、ひとの肩にちょこなんと、乗っかるものかい」
「麻酔。ぴんぴん元気にしてるやつを抑えておいて、注射を打つの」
「そりゃ驚きだ。それで、くたーっとなっちゃわないのかい?」
「それがなんか、硬直したみたいになって、うまいこと形を整えられるのよ」
「んじゃあ君は、眠らされたリスを肩に乗っけて、ポーズと笑顔を作っていたってわけか」
「それも違うのよ」祥子は、グラスに口を付け、そして離した。「クスリが効き過ぎたみたいで、けっきょくあのリスは死んじゃってたのよ」
 なんか、毛糸玉でも飲み込んでしまったような気分になった。
「リスの目は、つぶらに開いていたけどな」
「そういうものみたいよ。よくあることみたい」
「動物虐待だな」
「どうかしら」と祥子は首をかしげた。「芸を仕込まれてる犬なんかと違って、リスなんかは、なんだか使い捨てみたい」

 ディナーをおごってくれた祥子に俺は丁寧に礼を言い、バーバリー風のベージュのコートを肩にかけてやった。
「詳しくない街だけど、ショットバーかなんかを探してみるか」
「それより、うちへ来ない?」
 驚いた。
 《ペット》……と言いかけて、そいつをまた飲み込み、
「彼が、いるんじゃないのか?」
「取材で、地方なのよ。どっかの温泉」
 俺は、赤坂見附から高円寺までの電車での道筋を、頭の中でたどった。これは、赤坂には少し馴染みのある今現在聞かれても、決定版の答えはすぐに出ないな。いずれにせよJRが絡むはずだ。
 もどかしい。
 外堀通りへ出て、タクシーを拾った。
posted by TAKAGISM at 00:00| Comment(0) | ササイのことで思い出した
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