2007年02月07日

【第033章】

 『ベティーブルー』は良かった。配役や音楽ももちろんだが、なにしろ封切りのことで、フィルムが素晴らしかった。
 劇場の映写ランプやスクリーンの輝き具合も、抜群だったのかもしれない。
 優れた映画によくあることだが、しばし銀幕の中に入り込んだ。
 海辺のメリーゴーラウンドのそばでサックスが鳴り響くシーンなんか、そこに居るような気がした。

 劇場を出るとすでに暗かった。
 俺たちはどちらからともなく、花園神社方面へ足を向け、ゴールデン街に紛れ込み、最もゴールデン街らしくない店《B……》という店に入った。俺がかねてから知っていた店だった。
 今でもたまに行くことがあるショットバーだ。

 蛸山は、オレンジとウオトカのカクテルだったと思う(なんて言うんだ、あれは)、そいつを大きなグラスで飲みながら、
「オレ、やっぱり作家になるよ」と言い出した。
 原作者のディジャンはあの作品を、高速道路の料金所の番をしながら書いたというのだから、誰にだって無理な話ではないだろう。
 もっともその前に《ベティー》と出会う必要はあるが。
 
 この話『ササイのことで思い出した【22】』で、すでに書いたことではあるが、このとき俺はすでにまとまった量の小説を書き上げていた。高校生時代の短編を除けば、事実上の処女作と言っていいだろう。
 なので、主人公のゾーグが、キッチンのテーブルで、考え考えゆっくりと書き進むラストのシーンには、シンパシーを覚えた。

「俺はすでに、1作書いたよ」と、ジャックダニエルズのオンザロックを啜りながら、俺は言った。
「え? その小説ってどうしたの?」と蛸山。
「どうもしてないよ」
「なんでだよ」
「なんでだよと言われても……」
 俺は答えに窮した。
 激烈で美しい映画を観終え、さらにはその元となった素晴らしい原作に思いをはせるにつけ、自分の書いたものが紙くずのようにしか思えなかったことだった。

 はっきり覚えているのはこのとき、大野祥子のことを、これっぽっちも思い出さなかったことだ。
 ベティーとなぞらえることはもちろん、少しも思い出さなかった。
 つまるところ俺は、祥子を愛してなどいなかったし、彼女の人生を支えてやろうとも、あるいは自分の創作を手助けしてもらおうとも思っていなかったということだ(ちなみにゾーグは、結果はともあれ、ベティーに創作を《手助け》してもらったわけではない)。
 ただ、今にして思えば、その狂気への傾斜において、ごくわずか、祥子にもベティーへの共通点はあった。
 しかしそれはもう少し、先の話である。
 
 俺たちはしたたか酔った。もうこれから駅へ向かい、電車を乗り継いで大森まで帰るような気分ではなかった。
 とはいえ、このまま飲み続けるような体力もなかった。
 ではどうする?
 ロールプレイングゲーム……。《酒場》とくれば《宿屋》だ。どういうわけか、この方面には蛸山が明るかった。
 やついわく、
「区役所通りを行くと『風林会館』ってのがあって、そこにサウナがあるノダ」
「サウナでどうする」
「そこは、泊まれるノダ」
 俺たちは店の勘定を頼んでおいてから、また持ち金を計算した。

 現在、風林会館にサウナがあり、仮眠私設があるのかどうかは知らない。
 そのとき確かに朝までいられる「寝部屋」があるのが判ったので、俺たちはチェックインした。

 ロッカールームで、馬鹿げたことがあった。
 裸になった蛸山のイチモツが、天を向いて怒張していたのだ。
 ひじょうに立派なモノだった。
 同じく服を脱いだ俺のものも、屹立していた。
 お互い、それを指さしあって笑ったのだが、ひとしきり笑いが納まると、タコは、
「なあ……」と真顔になった。「立って、そんなもんか?」
「え?」
イキリ立って、そんな大きさなのか?
「こんなもんだけど……」
「ええー!?」
 タコは身体を折り曲げ、腹を抱えて大笑いしやがった。
 この侮辱を、俺は今も忘れておらず、《イキリ立つ》という言葉は、今も俺のトローマだ。

 サウナで汗をかき、洗い場で身体を流し合ったんだか、それぞれに過ごしたんだか、記憶は曖昧だが、おそらく前者だったような気がする。
 屹立物の問題は悔しかったが、楽しい思い出がある。
 休憩室では、バブル時代ゆえだろう、置きタバコもあったし、種類こそ少ないものの、勝手に飲んでかまわない清涼飲料水などもあった。
 俺たちは、健康診断で着せられるような簡易ネマキでゆっくりくつろいだあと、やがて仮眠室へ入ることにした。

 そこはとにかく大きな広間で、ほとんど暗闇に近い暗さだった。
 暗がりの中に、黄色いタオルケットが浮かび、ところどころそれにくるまれた人の形が盛り上がっていた。
 同じ向きに枕が並び、人と人をちょうど顔の部分で隔てるように、横60センチ高さ20センチあまりのついたてがあった。
 室内は決して混んでいなかったので、俺たちはなるべく密度の少ない一角に移動し、並んで横たわった。
「おやすみ」と言い交わし、すぐにまどろんだ。

 「ひゃっ!」といった悲鳴ともつかない声で目覚めさせられた。
 俺の左側で寝ていた蛸山が立ち上がり、俺のすねの上を乗り越えて、外へ転がり出していった。
 蛸山が横たわっていた場所を見た。ついたての向こうに、たくましい胸をはだけたクルーカットの浅黒い男が、肘をついて上半身を起こしているのと目があった。
 男はにやにやというより、むしろにっこりと笑っていた。
 すぐに男は身を倒したので、俺も蛸山のことは気にせず、眠ってしまった。

 翌朝。
 蛸山は仮眠室にはいなかった。やつはスイッチの入っていないマッサージチェアをリクライニングし、その上でまだ眠っていた。昨夜の男のように、ネマキがはだけていたが、やつの胸は貧弱だった。
 俺は置きタバコで一服し、コーラを飲み終えたが、まだ蛸山は目覚めそうにない。
 近づいて、マッサージ機のスイッチを入れてやった。
 あやつり人形を落っことしたようなやつ独特の動きで、手足を振り回しながら、タコは目覚めた。
「よう。よく眠れたか?」
「お〜。タカギ、なんともなかったか?」
「なんでもねーけど?」
「ならよかったよー。ゆんべはまいったよ……」と、蛸山はあたりを見回した。

 どうやら、タコの寝入りばなに、仮眠室のどこからか昨夜の男が近づいてきたらしい。
「なんかされたのか?」
「いや、さいしょは隣にきただけだったんだ。やだなあと思ってはいたんだけどナ」
「おう、それで」
「ニギられたのよ、うしろから」
 思い切り笑ってやった。
「おまえ、あっちこっちでビンビンと立派なもん振り回してるから、目をつけられてたんだろうよ」
「そっかなあ……。タカギは、ほんとになんともなかったのか?」
「なんともなかった。よく眠れた」
「そうかあ……」とタコは分厚い唇をとがらせた。「でも、これってさあ、やっぱオレの《勝ち》ってことだよな?」
posted by TAKAGISM at 00:00| Comment(0) | ササイのことで思い出した
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