2007年02月08日

【第034章】

 祥子と《ル・プティ・ニ》で会っていた。

 マネークリップとささやかな枚数の札とテレホンカード、そして免許証とマルイのカードも俺の手許に戻った。
 ランニングシャツといっしょに、ベッドの脇にあったそうだ。
 ランニングは、丸められ、レコードショップのプラスチックバッグの中に入れられて、これも俺の手許に戻った。
 洗濯などはされていなかった。もちろん、そんなことは期待していない。

「で、《おしおき》はどうだったんだ?」と、俺は一番気になっていたことを訊いた。
「ああ……別に、なかった」
「ふだんはどんな《おしおき》されるんだい?」
「いろいろよ」紅茶をかき回していたスプーンを、カップの底に突き立てる。「いろんなのがあるわ」
「たとえば?」
「ポピュラーなのは、《殴る》ことかな」
「殴る? 君をか?」
 そう言いながら俺は、《ポピュラー》って言葉の意味を考えていた。「ポピュラー」=「人気がある」と習ったが。
「殴られるのって、そう嫌いじゃないし」
「よく殴られるのか?」
「よく、でもないけどね」
「あとは?」
「あと?……そうね……つねったり。水風呂に漬けさせられるとか」祥子はあの屈折した笑みを浮かべる。「でも、こないだは何もなかったわ」
「それは何を表してるんだ?」
「もう出ていってくれ、って」
「出て行け?」
「そう。あそこはもともと本堂の借りてる家だしね」
「それで、君は?」
「出ていくしかないんじゃない?」
「いつ?」
「なるべく早く」

 俺たちは、急に思いついた旅行のために代理店を巡るのと同じような調子で、いくつかの不動産屋の軒をくぐった。
 どの店でも、言葉や表現こそは違うものの、いつも最初に、俺たちがそこで同棲するつもりなのかどうかを尋ねられた。
 それというのも、俺が主体的に不動産屋と交渉するからだ、ということがやがて判った。
 なので途中からは俺はむしろ、イライラさせられている男友達の役を演じることにした。
 しかし、当事者の祥子はまるでやる気がない様子で、どんな予算でどんな部屋に住みたいのかもはっきり要領を得ない。
 俺はじっさいにイライラし始めたが、ムリもないことだと思った。
 なにしろ彼女は、今もってまだ、公団住宅で男と一緒に棲んでいるのだから。

「どこも、高い」何軒目かを出たとき、祥子は言った。「そもそも、早稲田になんて住みたくないし」
 俺が住んでいた大森の寮は、当時42,000円だった。まるで消費税がついているかのような金額だが、そうではない。そのころはまだそんなものはなかった。増して、5%なんかではなかった。
「今はいくらなんだ?」
「知らないわ。本堂が払ってるから」
 そうか。つまり彼女は、これまでまったく負担のなかった《家賃》を負わなくてはならなくなったわけだ。
「敷金とか礼金の蓄えはあるのかい?」
「どうだろう。ぎりぎりなんとかなるかもしれないけど」
「モデル仕事のギャラは?」
 訊きたくないことを訊いてみた。
「それがあったわね。近々はいると思う。金額は聞いてないわ」

 しばらく足の遠のいていた「ゆず」で、俺たちは向かい合っていた。
 ボブ・マーリーのお仲間、ピーター・トッシュの「Steppin' Razor」が鳴っていたのを覚えている。

 もしおまえが○○(聴き取れない)したいなら 俺を大切に扱えよ
 もしおまえが○○したいなら 俺を大切に扱えよな
 俺は《歩くカミソリ》
 俺の○○(聴き取れない)に気をつけな
 俺はアブナいぜ
 アブナいぜ


「どうしたのサ。二人、深刻そうにヨ」と、ターマス。
 無視した。
 明らかに、奴の機嫌が悪くなったのが判った。

「どこに住みたいの? まずは場所だよな」と俺は祥子に尋ねた。
「やっぱり……高円寺かな」
「だって、それじゃ、奴のテリトリーじゃんか」
「物価は安いし、なにより、慣れてるから」
「中野や阿佐ヶ谷という選択は?」
「っていうか、疲れたわ。あんまり考えたくない」
「今夜はどうする?」
「どうする、って?」
「帰るのか? 奴んとこに」
「それはそうでしょ」
「そうじゃない選択もある」
「どういう意味?」
「どっかに泊まるって意味さ」
「うちに帰りたい」

 そうか。まだあの家は、彼女にとっては《うち》なわけだ。
 と、俺はひとり、合点した。

 君を愛したい
 大事に扱うよ
 君を愛したい
 毎日 いつでも
 僕らは同じ空間を 分け合って
 神様が パンを与えてくれる
 これは愛なのかい 愛なのかい 愛なのかい
 この僕の 感じてる この感じは


 ボブ・マーリーが歌っている。

「じゃあ、明日、高円寺を探してみようよ」

 祥子はあいまいにうなずいた。
posted by TAKAGISM at 00:00| Comment(0) | ササイのことで思い出した
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