2007年02月09日

【第035章】

 高田馬場で別れるまでに、翌日の約束を決めそびれた。
 酔っていたので忘れたのかもしれない。
 山手線への階段を上る途中で気づいたが、すでにどうすることもできなかった。

 寮の部屋に戻ると、蛸山がいなかった。
 もちろんそれまでにも、そんなことはよくあった。
 それでもたいてい、部屋にはうっすらと人のいた気配があって、そんなとき蛸山は、寮生の誰かの部屋で麻雀をやっていたり、近所に買い物に行っていることが多かった。
 しかしその日は、部屋は冷え切ったままで、ずいぶん長いこと蛸山が部屋を空けていたことがわかった。
 俺はなんとなく、あれこれを相談したいような気になっていただけに、調子が狂った。
 冷蔵庫にはビールは残っていなかった。
 本棚から取り上げたウイスキーの瓶は軽かった。
 蛸山がいつもきれいに洗って乾かしてあるグラスに注ぐと、指2本分ほどしかなかった。
 思いがけず手持ちぶさたな感じになった。

 《22時以降はかけてはいけない電話番号》
 俺の頭に刻まれている。そうさ! 当時は、20や30の電話番号は、ぜんぶそらで覚えていた。
 ポケットの小銭を調べ、ピンク電話を目当てに、娯楽室へ降りていった。
 数人の寮生たちが、プロ野球ニュースを観ながらにぎやかに談義している。
 外へ出た。
 門からすぐのところに、緑電話のボックスがある。
 テレホンカードを突っ込み、祥子にダイヤルした。
 何度鳴らしても、誰も出なかった。

 当時、23:59品川発が、大森へ戻るための最終電車だったと記憶している。
 0時半を回っても、蛸山は帰ってこなかった。
 他の寮生と地元で飲んでいるのでもない限り、今夜は戻ってこないということだ。
 じっさい、やつと飲みに行きそうな連中は、みんなそれぞれの部屋にいた。
 酒を借りようと思ったが、誰も持っていないようなので、午前2時までやっている酒屋に買い物に出かけた。
 いつもは開かずの踏切も、すぐに渡れた。
 
 安いウイスキーと氷を買ってきた。
 しばらく一人で飲んだ。
 いつのまにか眠ってしまった。

 目覚めると、昼だった。
 結局、いっしょに高円寺の物件を見て回るという祥子との約束は、果たされることはなかった。
 
 インターフォンで呼び出された。
 電話だ。
 階段を下りていく間、俺にはそれが蛸山からの電話だろうと直覚していた。
 こないだの俺と同様、何かやっかいな目に遭っているのかもしれない、と思った。
 しかし果たして、電話の主は、祥子だった。

「決めたわ」
「何を」
「住むところ」
「今日の約束、細かく決めるの忘れてたよな。悪かったよ」
「自分のことだから、自分で決めたの」
「で、場所は?」
「高円寺」
「そうか」
「ちょうど、前とは、駅を挟んで反対側なのよ」
「そうか」
「今日、学校は行くの?」
 質問の真意をはかれなかった。
「どっちでもいいと思っているところ」
「だったら、よかったら、見に来る?」
「見にって……もう引っ越したのか?」
「まさか。ただ、話がとんとんびょうしに進んで、もう鍵を持ってるのよ」
posted by TAKAGISM at 00:00| Comment(0) | ササイのことで思い出した
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