2007年02月10日

【第036章】

 およそ1時間後、俺は祥子に教えられた高円寺北口の喫茶店を見つけた。
 ドアを押すとカウベルがカラ〜ンと鳴った。小さなコーヒー屋だ。
 祥子は右奥の隅で、文庫本に目を落としていた。
 何を読んでいるのかは、気にもならなかった。
 
 俺を見た時の祥子の表情は、これまでのどんな時より、晴れやかに見えた。

「《本日のコーヒー・マンデリン》っていうの、おいしいわ。これで2杯目」
 別に、長く待ったということをとがめ立てする口調ではない。
「じゃあ、俺もそれにするよ」
 カウンターに目をやると、口ひげのマスターがうなずいた。

「すべてとんとんびょうしだったのよ」と、祥子は語り出した。
 いつもよりはまとまっているものの、やはりとりとめのない祥子の話を要約すると、こういうことになる。

 昨夜、帰宅すると、本堂はいなかった。しかし、いつ帰ってくるかもしれないと思い、祥子はベッドに遠慮して居間で眠った。
 けっきょく本堂はその夜、帰ってこなかった。
 目覚めてすぐに祥子は、自分の口座残高を調べようと、貯金通帳を持って銀行へ出かけた。
 記帳して、思いがけないものを発見した。
 モデルエージェンシー「O」からのギャラ。祥子の予想を越えて、大きいものだった。
「お礼かたがた、中江さんに電話をしたの」
 中江女史はおりよく在席中で、彼女の仕事ぶりを褒め、今後も多くの見込みがあると伝えたそうだ。
 祥子はその足で、駅前の不動産屋に飛び込んだ。
 当時でも、敷金2・礼金2が相場だったと記憶しているが、それをじゅうぶん払えるだけの金が、祥子にはあった。
「それである物件を、即決したの。ただし、すぐに移れるという条件をつけてね」
 《すぐに移れること》……不動産屋はそういうことには慣れている。ただ、これもいつもの手順通り、保証人を要求した。

 *ちなみに、俺がそうした賃貸不動産の段取りを知ることになったのはずっと後のことだが。

「保証人は、原則的に父親でないといけないと言うのよ」と、祥子は苦々しい顔をした。「あたしがあまり父とうまくいっていないことは、前に話したと思う」
「うん。少しだけ聞いてるよ」
「だから、不動産屋には、父も母もいないことにしたのよ」
「へえ。でも、それでうまく話が通じるもんかな」
「もちろんさいしょは、不動産屋も困った顔をしたわ」と、祥子は話を切り、コーヒーを啜って、身を反らせ、得意そうな顔をした。「で、もっぺん、中江さんに電話をしたのよ」

 中江女史は、俺にも言ったんだった。祥子が男と棲んでいるということは、あまりよくないことだ、と。それがどういう理由なのかは今もって俺には判らないのだが、相応のワケがあるのだろう。
 祥子は、これまで男と同棲していたこと、そしてかねてから自立を目指していたこと、話が急なことになってしまったが、まさにいま引っ越しをしようとしていること、保証人たるべき父はすでにいないのだということを説明したのだと言う。
 しかし、すでに祥子の履歴書を見ていた中江女史は、その嘘にすぐに気づいた。
「『お父様はご健在でしょう?』と中江さんが言うのよ。だからあたし、機転を利かせて『今、不動産屋さんから電話しているんです。急な話でごめんなさい』と言ったの」
 祥子はずいぶん誇らしげだった。
「で、中江さんに、話は通じたの?」
「『不動産屋さんに電話を替わって』と言ってくれたの」
 不動産屋と中江女史の長いやりとり、そして、一度の中断ののち、不動産屋がどこかへかけた別の電話。その間に届いた中江女史からのFAX。
 そして最後には、不動産屋みずからが、中江女史に電話をした。
 結局、敷金と礼金と手数料をその場ですぐに祥子が持参するという条件で、賃貸契約は半ば完了した。

「つまりは、あの会社の信用と中江女史の押しが、効いたというわけだ」
「あたし自身の将来性というのも、そこにつけ加えて欲しいな」
 いままで見たこともない陽気さで、祥子は言った。
「なにせよかったな。それで、君は今すでに、そこの鍵を持ってるというわけだ」
「そう、これね」と祥子は、ありふれた鍵を2つ、振って見せた。「それでね、お金を下ろしにすぐに銀行へ行ったのよ。そこで見たもの、わかる?」
「わかんないよ」
「わかんない?」
「……わかった」
「わかった? 何よ、言ってみて」
「自分が《麻酔リス》といっしょに写ったデカいポスターだろ?」
 俺は笑いながら言った。
 祥子は顔をしかめ、俺が吐き出したタバコの煙を払いのけるようなしぐさをした。
「そんなんじゃないわ」
「じゃあ、何だよ」
「お金。別のお金がまた入ってたのよ」
「ほう。そりゃまた、どこから」
「本堂……」祥子の目が、光った。「本堂の名義で、10万円振り込まれていたの」
 濃くて、酸っぱくて、甘くて、苦い……たしかにほんとにうまいマンデリンが、胃の中でグルリと渦巻いた。
「それは、受け取っていい金なのかね」
「受け取る? 違うじゃない。受け取ったんじゃないのよ」
「どういうこと?」
「そのお金は、《振り込まれて》いたの」
「何の意味なんだろうな」
「さあね。でも、あいつらしいわ」
「どういうこと?」
「お金は、たくさんあるのよ、彼は」
「そうじゃなくってさ」
「きっと……」と、祥子はカップを持ち上げ、それが空なのに気づき、下に置いた。「本堂の、いつも言う、《ダンディー》なのよ」
 俺はあの、丸坊主の、ランバージャックみたいな大男のことを思い浮かべた。
 やつが、銀行のATMの前に立ち、手許の小さなメモかなんかを見ながら、太い指でボタンを操作し、大野祥子の口座に10万円を振込み、出てきたレシートを、くしゃっと丸めてくずかごに棄てるところまでが、目に浮かんだ。

 しかし、若すぎた俺は、その時の、本堂正一の気持ちまでは、理解できなかった。
 俺のようなやつは、死ぬまで、そんなもんかもしれない。 
posted by TAKAGISM at 00:00| Comment(0) | ササイのことで思い出した
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