2007年02月11日

【第037章】

 祥子が案内してくれたのは、狭い路地が入り組んだ住宅街だった。
 元々あまり方向感覚が優れていない俺は、駅前からの位置関係がすぐに判らなくなってしまった。
 ただ、彼女と本堂のすみかである団地とが、駅を挟んで対角にあるのは、なんとなく理解できた。
 
 それは新しくもないアパートの、1階の部屋だった。
 寒々しい部屋だった。
 ドアを開けると正面にキッチンがあり、左手がバスルームで、右手に6畳ほどの部屋があった。
 狭い庭らしきものへ続く大きな掃き出し窓がついている。
 床はあいまいな黄色のクッションフロアで、言うまでもなく、家具のひとつもなかった。
 もっとも、引っ越し前の部屋が寒々しく感じられるのは当然のことだ。しかし、祥子と本堂の、濃く熟した住まいをすでに見ていただけに、俺は心細い気持ちになった。
 祥子はと言えば、特に寂しがっている様子も見られず、自分が自力で手に入れた新しい空間を、むしろ自慢するような調子だった。

「収納ってもんが、ほとんどないのよね」と祥子は、まるでそれだけがその部屋の欠点でもあるかのように嘆いてみせた。「まあ、仕方ないわ。タンスか衣装ケースでも買うことにする」
「それに、ここには暖房器具ってもんがないな」
 足の裏から冷たさがしみこんでくる。
「そうなのよね。電気ストーブがいいの? こたつは、なんだかいやだわ」
「俺の部屋は、小さな電気ストーブがひとつっきりだよ。ただし、部屋の中でもずっと靴を履いているけどね」
 祥子は俺のことばをよそに、部屋の中を検分していた。
「これ、何だろう」
「ガスストーブの栓じゃないのか?」
 祥子はしゃがみ込んで、コンセントに蓋がついたようなその小箱をいじった。
「どうやらそうみたい」

 俺は、あることを思い出した。寮の《卓球部屋》のことだ。
 もともとは何だったのだろう。焦げ茶色の羽目板がびっしりと張り巡らされた、豪華な造りの部屋だ。
 奥の壁には大きな黒板があり、折りたたみ椅子や会議用の長机が畳まれて積み重なっていた。
 部屋の中央には卓球台があった。ボールやラケットもそこいらに転がっているが、そこで誰かが卓球をしているのを見たのは、一度きりだ。
 ふだんはほとんど誰も出入りしない部屋だったが、その部屋にはある役目があった。というのも、卒業や、あるいはなんらかの理由で寮を出て行く連中が、使い古したかあるいは新品の電化製品や家具をそこに置いていくという、なんとなくの慣習があったのだ。
 俺自身そこで、とてもいい音を出すオーディオアンプや、クラシックなデザインの椅子を手に入れたことがあった。
 その《卓球部屋》に、オレンジ色をした小振りのガスストーブがあったのを思い出したのだ。
 寮の部屋には、ガスストーブの栓があった。しかし、どういう理由か、使われなくなって久しいようだった。そのストーブは、遠い過去の遺物なんだろう。骨董品みたいなそいつが、ほこりをかぶっていたのを思い出した。あれなら、昨日や今日に、なくなっているはずはない。

「引っ越し祝いに、いいものをあげることにした」
「なに?」
「ガスストーブ」
「なんだかつまらないプレゼントね」
「しかも、火がつくのかどうかもわからない」
「どういうこと?」

 祥子は、今にでも引っ越しをしたい様子だった。
 本堂への気持ちや未練に関して、俺は質問をしたかった。でも、聞けなかった。
 おそらく彼女は、新たに借りた自分だけの住居に、高揚していたのだと思う。
 それともそうやってみずからを高揚させることで、思いがけない本堂との別離を、自分なりにごまかしていたのかもしれない。

 何もない部屋に鍵をかけて、俺たちが向かったのは、これもまた高円寺駅そばにあるレンタルショップ。
 俺たちが借りることにしたのは、リヤカーだった。
 そのレンタル料がいくらだったかは覚えていないが、思いのほか高かったような気がする。
 祥子はすぐに手付けを払おうとしたが、俺はそれを押しとどめた。
「だって、当日になってから借りられないなんてことになったら、困らない?」
「むこう一年、リヤカーを借りるやつなんて、絶対いないはずだよ」
 そんな問答をしたのだったが、こけた頬に無精ひげ、脂っぽい長髪にエスニックなヘアバンドをしたレンタルショップの主人は、
「いえいえ、リヤカーの需要はけっこうありますよ」などと言ったもんだ。
「ほらね!」
 と祥子は、俺を横目で睨みながら、前払いをした。
 しかし、なんのことはない。彼女の言う「引っ越し当日」というのは、その翌日なのだった。 

 布団も暖房もないクッションフロアの上で眠ることは出来ない。
 とはいえ、どこかに泊まることになれば、俺は《引っ越し祝い》を持ってくることができない。
 祥子はやはり、本堂との家に戻ることになった。
「荷造りをしなくちゃいけないんだから、仕方ないわよね」
 当然のことだ。
「今夜になって、彼の気が変わることはないのかな」
「ないと思う。そういう人じゃないから。それにあいつはなにしろ、あたしの口座にお金を入れてくれたのよ」
 もうひとつ、聞きたいことがあった。
「最後の夜を、彼はどう過ごそうと思うだろうな」
「どういう意味?」
「どうもこうも……」
「あたしはおそらく、片づけで徹夜になるわ」

 翌朝の予定。
 俺は11時にレンタルショップでリヤカーを借り出し、それを引っ張って、祥子と本堂の団地まで行くという約束。
 一緒に夕食を摂ることもなく、俺たちは高円寺の駅で別れた。

 寮に帰って最初にしたことは、《卓球部屋》を調べることだった。
 狙っていたガスストーブは、元の場所にあった。
 機能を検査することはできなかったが、ついているホースが短く、しかも老朽化していることに気づいた。明日の朝のうちに、なんとかしなくてはいけない。あるいは、祥子の引っ越しが済んでからでもかまうまい。
 同時に目についたのは、古くさい扇風機。これは、コンセントに挿してみれば動作が確認できる。
 ほこりっぽいその2つのブツを小脇にかかえ、俺は部屋に戻った。

 蛸山は、やはり戻っていなかった。
 電話室に降りていって記録簿を調べたが、俺への電話がかかってきた形跡はなかった。
 心当たりの寮生に尋ねてみたが、誰もタコの消息を知るものはいなかった。

 扇風機を試してみた。
 ちゃんと動いて、季節外れの冷風が部屋の空気をかき回した。
 ガスストーブは、燃焼部分と輻射のためのメタルがほこりまみれだったので、雑巾で丁寧にぬぐった。
 古くさいオレンジ色に塗装されているとはいえ、きれいなものだった。

 もう寝ようかと思うころ、インターフォンで呼び出された。
 蛸山だと確信した。
 急いで電話室へ向かうと、途方に暮れたような顔をした一年生が受話器を握ったまま、
「切れちゃいました」
「誰だった?」
「聞きませんでした」
「男か?」
「男です」
「タコヤマって言ってなかったか?」
「聞きませんでした」

 それからしばらく電話室で待ったが、俺あての電話は、二度とかかってこなかった。
posted by TAKAGISM at 00:00| Comment(0) | ササイのことで思い出した
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