2007年02月13日

【第039章】

 祥子と俺とは、ささやかな引越祝いをすることにした。
 駅裏の、あまり高級でもない焼肉屋だったが、俺は肉や臓物を丁寧に焼き、祥子の皿にとってやった。
 思えば一日、何も食べていない。俺も祥子も、たくさん食べた。
 
「今夜はすごく冷えるわね。火の前にいても、足元が寒いもの」
 祥子のその言葉で、俺はガスストーブのホースのことを思い出した。
 彼女をそこに残し、店主に近くの荒物屋の場所を聞いた。
 あっけないほどの値段で、ゴムホースとそれを締めるための金具を購入した。
 
 戻ってみると、祥子は焼き網の上にありったけの肉や野菜を載せていた。白い煙が上がり、ほとんど焦げていた。
「あー、なんてこったい」
「だってあなた、遅いんだもの」
「ちっとも遅くなんてなかったろ」
 祥子のそうした《バランスの崩れ》は、今に始まったことじゃない。彼女らしいことだ、と、俺はとがめたりはしなかった。

 ガスストーブは見事に着火した。

 *今にして思うのだが、ちょうど俺がリヤカーを返しに行っている間に、ガス業者に来てもらったような覚えがある。

 ただ、ストーブはあまりに旧式のものだったので、着火スイッチがバカになってたんだかそもそもなかったのだか、最初に火を灯すためには、マッチかライターが必要だった。
 100円ライターの火を横にかざして、ゆっくりと栓を開けていくやり方を教えてやったのだが、祥子は尻込みしてうまくできなかった。
「明日になったら、チャッカマンを買ってやるよ」
「ああ、あのピストルみたいなライターね。あれなら怖くないかも」

 天井には、シーリングランプを下げるためのフックとコンセントはあったが、照明器具はなかった。
 さいわい、キッチンの上に、よくある30センチほどの蛍光灯がついていた。
 青白くて頼りないその明かりと、ストーブの放つ赤い炎の間で、俺たちは身体を丸めていた。

「照明器具もなければ、冷蔵庫もないんだな、この部屋には」
「そのうち揃えるわ。とは言っても、あんまりモノを増やしたくはないけどね」
 冷蔵庫ばかりは、さすがの《卓球部屋》にも、なかった。あっても運ぶすべがなかった。
「それに、鍋釜のたぐいもなさそうだな」
「中華鍋とアルミの小さな鍋はあるわ。あと、食器は少し持ってきた。あたしが買ったものをね」
「電話はどうする?」
「電話はね、休止していた回線があるの。だから、明日にでもNTTに聞いてみる」
「電話機は?」
「それは買わなくちゃならない」
「アキバにでも行くか?」
 俺は笑いながら言った。今はどうなのか、ずいぶん様変わりしてしまったと聞くが、家電の一切合切を揃えるなら、当時はやはり秋葉原だった。
「おいおい揃えていくから、いいわ」

 そんな話を続けながら、俺にはひとつの疑問、いや、違和感がつきまとっていた。
 それというのも、自分の立場、立ち位置のことだ。
 俺は単に女友達の引っ越しを手伝ったのち、たまたまこうして、今だけ、ここにいるのか。それとも、俺は「本堂と入れ替わった」のか。
 この寒々しい部屋を、祥子が好き勝手にととのえていくのを、黙って見ていればいいのか。それとも、俺もいっしょになって、ここを新しい《ル・プティ・ニ》……「小さな巣」にしていかなくちゃならないのか。

 夜は更けた。
 祥子は布団すらもっておらず、布団袋の中に入っていたのは、薄っぺらくてくたびれた、三段折りになるウレタンのマットレスと、数枚のシーツや毛布だった。
 それを敷き、キッチンの明かりを消すと、ガスストーブの赤い光だけになった。
「つけておこうか? それとも消す?」
「ガス中毒になりそうで怖いわね」
「んじゃ、消そう」

 ガスが燃えるかすかな音が消えると、部屋はひどく静かになった。
 真っ暗になるような気がしていたのだが、実際はそうじゃなかった。
 大きな窓から差し込む街灯の明かりが、目が慣れるにつれ、まぶしく感じられるようになった。
 そうだ。この部屋にはカーテンすらなかったのだ。
 窓ガラスは視界を遮るためか、細かい凹凸があり、外の景色は見えなかった。凹凸は光を拡散し、街灯を大きな満月のように見せた。
 マットレスの上で背中をくっつけ合った。

「いいことを思い出した」と俺は言ったんだった。
「なに?」と小さな声で、祥子は答えた。
「ストーブのそばで、扇風機を、微弱で回すんだよ」
「それが?」
「暖かい空気が循環して、上にばかり行かなくなる。部屋全体が暖かくなるだろう」
 
 *いま俺はこれを書きながら、笑いを禁じ得ないんだが、まったく馬鹿なはなしをしたものだと思う。

 祥子は黙っていた。
 何を思っていたのだろう。知るすべもなかった。
「それって、いい、アイデアかも、しれないわ、ね」
 眠りに落ちる直前の、あいまいな声で、祥子はつぶやいた。
 それっきり、眠ってしまったらしい。
 
 俺の心は、これっぱかしも、ロマンチックなものじゃなかった。
 部屋の寒さ以上に、何か冷たいものが、胸の真ん中を吹き抜けていく感じだったことを覚えている。
posted by TAKAGISM at 00:00| Comment(0) | ササイのことで思い出した
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