2007年02月16日

【第042章】

 その頃も《ひびき印刷》でのアルバイトは続けていた。
 正しく言えば《ひびき印刷》社屋の中の狭い一室に引っ越した翻訳会社でのアルバイトだ。
 これまで名前は出してこなかったが、今後は仮に《株式会社インターフェース》と呼ぶことにしよう。
 社長が自殺したあとの《インターフェース》は、これもそれまで名前を伏せてきたが、番頭頭だった泰成(やすなり)さんが滞りなく仕切っていた。
 スペースとしてはかなり手狭になったものの、その分人もかなり人も減っていたので、なんとかなっていた。

 以前にも書いたが、IBMやその《クローン》と呼ばれるマシンたちに埋もれるように、仕事をしていた。
 狭いスペースのついたての向こうは《デザイン室》だった。そういうとかなり立派なものが想像されてしまうが、実際は《デザイナー》とその弟子が二人がせっせと(あるいはのんびりと)チラシやパッケージのデザインを行っていた。
 当時の《デザイン》と言えば、方眼紙にざっとラフを書き、その後、素材写真の版権会社のカタログなどからコピーした素材を糊でコラージュしたり、手書きの見出しにフォントの指定を行うような作業だったようだ。
 一方、ついたてのこちらでは、これも以前に書いたが、Venturaにテキストを流し込み、レーザープリンタと組み合わせて、DTP(デスクトップパブリッシング)のはしくれのようなことをやっていた。
 コンピュータによる《デザイン》など、うっすら予感はするものの、誰も現実には考えてもいなかった時代の、おもしろいネジレ現象だったと思う。
  
 印刷会社の営業マンは、誰もがバイタリティに溢れている(か、あるいはそれを装っている)感じであり、ジャンルごとにいくつかの課に分けられ、反目しつつも結束し、毎日駆け回っていた。
 営業部の部屋を《刑事部屋》のようだなと思ったものだ。
 誰もが色校(本格的な印刷に入る前に、デザイナーやお客に、仕上がりを確認するためのもの)を小脇にかかえて駆け回り、ルーペを覗いては「黄版がズレている」とか「赤が浮いている」などと活発にやりとりしていた。

 一方、徒歩1分のところに印刷所があった。ここでは、老練な印刷工たちが、気むずかしい顔をして、インクの量を調節したり、大きな紙を捌いたりしていた。
 この人たちは非常に気位が高く、よく言えば一徹、悪く言えばヘンクツで、営業部の無理な注文にヘソを曲げてみせたり、不可能と思われる納期に夜なべ仕事で対応したり、大量のヤレ(事後のクレームや誤植などで反故になった紙)を嘆いたりしていた。
 俺はこの工場へ行くのが好きで、何かと理由を見つけては、よくその薄暗い建物へ入り込んではあぶらを売っていた。
 そのうち、あることに気づいた。
 工場には、耳の遠い人が多かった。最初、連転機の轟音を毎日聴いているせいかと思ったのだが、もともと耳に障害のある人がこの職に就くことが多いということが判った。会社にも、そういう人の雇用を進めることでなにか税制上などの恩恵があったのかもしれない。
 また、知恵遅れの人も数人いた。彼らは印刷機に直接触れるような仕事はしていないことが多く、印刷所内の掃除や、用紙の運搬などに従事していることが多いようだった。
 いずれにせよ、耳の遠い人も知恵遅れの人も、調和して働いているという印象が強く残っている。
 今でも、《チームワーク》という言葉を聞くといつも、あの情景を思い出す。

 さて、そんな日々の中、《ひびき》のO村社長が一席を設けることになり、アルバイトの俺までがそこに呼ばれた。
 なんでもえらい先生をお招きする会とのことで、粗相がないようにと泰成さんにも事前に注意された。
 その日、神楽坂の料理屋の座席で、その会は設けられた。
 O村社長、泰成さん、翻訳者のスコット・R(アイルランド系アメリカ人)、そして俺が待つ中、その《先生》は現れた。
 
 俺は今でもそうなんだが、第一印象でひとのおおむねを判断してしまう。
 のちのち目がね違いに気づいて反省することもあるが、ほとんどの場合、見誤ったことはないと思っている。
 この時現れた先生を一見して、俺は、
「これはとんでもない猿ジジイ」だなあと直感したことだった。
 仮に名前を寺坂先生と呼ぶことにしよう。
 身長は160未満。年齢70歳くらい。見かけは、服を着たチンパンジーのようだった。曲がった前歯が飛び出している。
 威厳らしきものは、少なくとも俺には、まったく感じられなかった。
 
「これはこれはようこそおいでなさいました」と、O村社長は芝居がかった挨拶をし、
「先生、お久しぶりです」と泰成さんも、座布団を外して挨拶した。
 スコットと俺は、正座し、その場でお辞儀をした。

 何が始まろうとしているんだろう……。若い俺にはかいもく見当もつかなかった。

 後で判ったこと、そして、この歳になってやっと合点がいったことを総合すると、以下のような話になる……。

 売り掛けを回収するため+αの意図をもって、O村社長は《インターフェース》を吸収した。
 改めて検分すると、かなり放漫な経営がされていたことが判った(俺がもらっていた高額なアルバイト料などは、ほんのその一角)。
 同時に、印刷会社の感覚では信じられないくらい、インターフェース社は営業努力というものをしていなかった。
 一例をあげると、俺が泰成さんに常々言われていたこんなセリフがある。
「初めてのお客さんに気をつけるのはもちろんのことだけど、最初の電話で一度でもお金の話をした人の仕事は、絶対に請けてはいけないよ」
 これは泰成さんの苦い経験に裏打ちされた鉄則とのことで、今考えても一面の真理はあると思う。が、その一方で確かにO村社長が憤慨したような「消極的な営業姿勢」が現れていると言えるだろう。
 いわば、バブルの時流に乗って殿様商売をしていたのがインターフェース社であり、社長の自殺はその破綻の象徴的な出来事だったのだ。
 O村社長は、営業にテコを入れることにした。
 俺にはうかがい知れないところで、何度かO村社長と泰成さんの会合がもたれたのは知っている。その中で登場してきたのがこの寺坂先生だったのだ。
 寺坂先生は、つまるところ、かなり長いキャリアを持つテクニカルライターであり、オーディオ評論家だった。その仕事を通じて、O社やP社など、音響関係のメーカーに広く顔が利くという。
 それもそのはずだ。新しい音響技術や回路などが発表されれば、専門誌の多くがそれを紹介する記事を書くことになる。寺坂先生は、一般にこそ名は知られていないものの、やはりその業界では知られた存在であったらしく、時に辛口なその評論は、オーディオマニアにとってはいささかの影響ある存在だったのだ。
 それゆえ各社は寺坂先生をおそろかにはしないという構図が出来上がっていた。
 インターフェース社のメインの仕事が、さまざまなオーディオメーカーのカタログやパンフレット制作だったという話は以前にも書いたと思う。それゆえ、泰成さんもかねてから寺坂先生との面識はあったわけだ。
 海外向けパンフレットでの用語統一などに際してアドバイスを求めたりしたいきさつから、スコットもまた、寺坂先生を知らぬ間柄ではなかった。
 くどくどと書いてきたが、つまりはO村社長は、この席をもって寺坂先生にインターフェース社の非常勤の顧問になってもらうことを依頼し、それによって各オーディオメーカーとの絆をより強めようという話だったのだ。
 つまりは、役人の天下りといっしょ。相手が元役所のエライさんか、業界に毒を持つ評論家であるかの違いだ。
 
 話の下地は出来たいたのだろう、会食の席ではもちろん特に顧問料などの具体的な話は出ず、ただO村社長は北陸生まれの苦労人らしく臆面なく寺坂先生に「おねがい」を繰り返し、寺坂先生はあまり酒には強くないと見え、真っ赤な顔をますます猿らしくしながら、
「あそこの会長には他人にはちょっと言えない貸しがある」だの、
「どこぞの部長は一度どやしつけたことがある」だの、
「どこどこ会社の工場長はかつての教え子だが、出来が悪くて」だのと、どこまでがホントかわからないような法螺を吹きまくっていた。
 スコットはさすがに若いアメリカ人らしく、ぱっぱと目の前の料理を平らげると、とっくに伸ばしていた体をさらに後に反らせ、
「ファ〜」とあくびをしたりしたもんだ。
「おい、スコット!」と寺坂先生。「おまえ相変わらずお行儀が悪いな」
 エヘヘと悪びれる様子もないスコットだった。
 ところが矛先がこっちへ向いたのには困った。
「ときに……」と、寺坂先生は猿顔の中の目をきらりと光らせ、「さいぜんからそこにいる小僧さんは、それは何だね」と、俺を指して言った。忘れもしない。まさに文字通り、そう言った。
「いやいやすみません、先生」と大村社長。「紹介が遅れたことをお詫びします。彼は泰成君のところの若い者でして《コンピューター》が得意なもので、先生がいらっしゃるなら、ぜひ技術的なお話を伺いたいと懇願するものですから」
 もちろん懇願などしていないのだが。
「あたしゃーコンピューターなど興味はないし、むしろでえきれえだ」
 言うと寺坂先生はそっぽをむいて杯を空け、泰成さんが素早く俺に目配せした。
(口答えはするなよ)というわけだろう。
 O村社長は寺坂先生の杯に酒を注ごうとしたが、そんな時に限ってとっくりが空っぽで、妙な間だったことを覚えている。
 それにしても、時は90年代。いかにオーディオ評論の重鎮とはいえ、真空管ばかりではあるまいに。
 若くて生意気だった俺も、その場ではカッとなるよりむしろ唖然とした記憶がある。
 
 ただ、帰りの徒歩での道々、なんとも言えない不愉快な気持ちに襲われた。
 あのジイさんは、これからちょくちょく会社に出てくるのだろうか?
 どうやればジジイに一泡吹かせてやれるだろうか。

 道を迷ったのだったか、それが最短ルートだったか、面影橋のあたりだったと思う。
 俺は電話ボックスから祥子に電話した。
 彼女はすぐに出た。
「《接待》ってやつなのかなんかしらんが、いやな晩飯を食ってさ」
「それで?」
「会いたいなと思ってさ」
「もちろんいいけど、いやな話は聞きたくないわ」
「わかったよ」
「で、来るの?」
「行くよ」

 俺は早稲田駅への坂を上った。
posted by TAKAGISM at 00:00| Comment(0) | ササイのことで思い出した
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