2007年02月17日

【第043章】

 言うまでもなく、今の俺は《寺坂先生》に対して、なんの恨みを持つものでもない。
 ただ、つい最近「職場の上司にイジメ抜かれた」という人の話を聞いていて、記憶がありありとよみがえった。
 《ササイ》のことが知りたくてこの文章を読んでくれている方たちには退屈な枝分かれかもしれないが、当時の俺やその時代を書いていく以上、やはりできれば書いておきたい話がいくつかある。
 「上司のイジメ」というものをその頃の俺がどう考え、それにぶつかったり身をかわしたりしたのかも、もしかすると、誰かの何かの参考になるかもしれないと考えるからだ。

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 《コンピュータに詳しい》などというのは、O村社長の大きな買いかぶりで、俺はちっとも基本が判っていなかった。思えばその当時は、88(ハチハチ)の時代を経て、98(キュウハチ)の時代になっていた頃だと思う。
 エプソンの 386だか398だかいう機械があった。8インチのフロッピーを挿入するタイプのマシンだ。
 その機械には「一太郎」というワープロと「花子」というドローイングソフトが搭載されており、俺はやはり独学でそれらを使って、輸出用マニュアルの図版を作り、これをVentura&レーザープリンタから出力された紙に貼り合わせたりしていた。
 版下屋さんの杉田さんに届ける原稿も、かなり念入りなものになっていたわけだ。
 その一方、 MS-DOSというものが少しずつ判りだし、config.sysや autoexec.batなどというものの存在を知り始めた頃だった。
 旧くからのパソコンユーザーなら微笑んでくれるところだと思うが、そうでない方のために一応解説すると、これらは自分のコンピューター、つまり「パソコン」を起動するための初期設定ファイルだ。これを自分なりに書き換えることで、自分の環境が起動する……そんなものだと思ってくれたらいい。
 
 そんなレベルで右往左往していた俺だったが、先生がいないことがなによりの先生だったようにも思う。
 これは、その後の俺の仕事にも通底している。いわゆる解説書をいかに読み込んでも、腹の底から納得できる理解には通じないのだ。
 まあ、それはそれとして、だ。
 ある日、O村社長から命令が下った。いわく、
「これからはコンピューターの時代になるのは間違いない。ついては、営業部の連中に、ひとつ《レクチャー》をしてやってほしい」とのこと。
 日時も場所も、すでに決められていた。
 非常に戸惑いはあったものの、拒否することなど出来なかった。

 《レクチャー》は、ひびき印刷で一番大きな会議室を使って行われた。
 一刻を争うような仕事に追われている営業マンたちが、社長の厳命により、あからさまに迷惑そうな顔をして集まってきた。
 その場に、言いだしっぺの社長がいてくれたならまだしも、仕切るのは《ひびき印刷》のキツネ顔した総務部長。
 はなはだ心細い気持ちでホワイトボードの前に進み出たことを、今も覚えている。

 話の内容というのは、今聞くと吹き出してしまうものかもしれないが、どうか笑わないでほしい。つまりは、

・ MS-DOSとは何か……
 それは、マイクロソフト社の開発(あるいは買収?)した、ディスク・オペレーション・システム、である。
・コンピュータでは何ができるのか……
 「桐」というデータベースで、たとえば顧客管理ができる。
 「一太郎」というワードプロセッサで、企画書を書くことができる。
・インターフェース社では、どのようにコンピューターを利用しているか……
 翻訳者たちとのチャットや原稿の受領を行っている。
 レーザープリンターで、版下を作っている。

 ほとんどの参加者が、折りたたみ椅子の上から腕組みして俺を睨んでいた。あるいは、居眠りをしていた。
 ただし、いくつか前向きなスルドい質問をする人や、俺の誤謬をサポートしてくれる発言もあった。
 今にして思うと、個人的な趣味でパソコンに精通していた人だったのだと思う。

 3時間近くにもおよぶ《レクチャー》が終わりかけた頃だ。
 会議室の後のドアが開き、入ってきたのは、ループタイを締めたチンパンジーみたいな寺坂先生だった。
 入って来るなり、会場の最後部から一喝だ。
「事務所にだーれもいねえと思ったら、こういうことしてたか!」
 みんなが振り返った。
 そもそも、寺坂先生は、インターフェース社の顧問ではあっても、ひびき印刷に対してなんらの権威あるものではない。
 なのでこれは明らかに異様な言動なのだが、ひびき印刷の営業マンたちは、何事が起きるのかと、むしろ刺激を歓迎するような様子だった。
 先生は人をかき分けてひょこひょことやってきて、プラスチック製の小さなハンドマイクを俺からもぎ取って、
「いやいやどうも、寺坂です」とやりだした。
 泰成さんがうまく取りなさなかったら、どういうことになっていたのかと思う。
 ひびき印刷の連中は、明らかに困惑しつつ意味不明な笑いを浮かべ、けじめもなく《レクチャー》は散会した。
 
 その後、俺はO村社長に呼ばれ、どういう話になっていたのだか、
「俺はオマエに、コンピューターのレクチャーを頼んだのにさ」
「コンピューターの話をしましたよ」
「いや……」と言って、O村社長は腕組みしたまま眉根を寄せ、下を向いた。
 何がどうなって、どう伝わったのだろう。
 こればかりは今も判らない。

 寺坂先生は、週に2度ほどインターフェース社の狭いスペースに顔を出した。
 あれもどういうイキサツでそうなったのか、ついたての向こうの《デザイン室》の《弟子》だった智恵子というコが、先生にお茶を出すようなキマリになっていた。
 いずれにせよたかが粗茶だと思うのだが、先生はほぼかならず
「これはぬるい」だの
「茶碗の半分以上に茶を入れるバカがいるか」だのとナンクセをつけた。
 今思っても、くだらない。
 智恵子もまた、どこだったかド田舎出身の、見るからに鈍重そうな、あまり愛想もよくない子だったもので、イジメるにはちょうどよかったのだろう。

 さて一方、俺は、たいてい先生には背中を向けるかっこうでパソコンをいじっていたわけだが、先生はまるで、近くでそれを覗き込むと目がつぶれるとでも言わんばかりの調子で、遠くから俺を呼ぶのだ。
「おいこら、小僧」と。
「はいっ」と俺は快活に振り返る。
 我ながらマゾっ気があるのかといぶかしんだこともあったが、センセイに侮辱されればされるほど、なんだか自分の中に、きれいなものでも溜まっていくような気持ちがしていた。
 ともかく「はいっ」と振り返ってみると、センセイは横柄に手招きをする。
 広くもないそのスペースを、椅子の車輪をつかって近づこうものなら、センセイ、小魚でも釣り上げたように興奮して、
「こら!」だ。
 年長の者、しかも《大先生》に呼ばれて、立ち上がって跪かぬとは何事かというわけだ。
 もちろん金輪際ひざまずいたことなどないが、それでも椅子からはぴっと立ち上がる。
「さっきから、何をくだらんことやっておる!」
「はい。今日中に杉田さんに持って行く原稿の出力がありまして」
「出力だとう?」
「はい。プリンターで」
「バカも〜ん!」
「?」
「原稿というものは、コンピューターまかせで出すモノではないだろ〜! 心を込めて自らが脳みそ絞って書くモノだろ〜!」
 嘘みたいだが、そういう、正直いって「アタマのおかしい」やりとりが実際にあったのである。
 センセイはある意味ほんとに《コンピューターは原稿を自動筆記してくれる》と思っていたのだろうか。
 しかし、今もって我ながら不思議だが、心の中に復讐を誓っていながら、あるいは誓っていればこそ、俺は答えたんだった。
「すみません寺坂先生。おっしゃるとおり、原稿は心を込めて書かなくてはいけないものなのに、僕ときたら、ついコンピューターに頼ってしまい。ほんとうに我ながら、バカだと思います。どうか見捨てず、ご指導下さい」
 文言こそじゃっかんの違いはあれど、まさに俺は、そのように答えた。
 徹底的にそうした。
 念のため言うが、俺はそのセンセイになにか一抹の《学ぶべきモノ》があるとは、これっぱかしも思っていなかった。
 正直、時代遅れを通り越した《愚かな老人》としか思わなかった。
 口を開けば、過去の自慢話や、俺にはよくわからんトランジスタの理屈。
 俺は、そのたび、心からうなずき、相づちをうち、センセイを賛美したものだ。
 ここは難しいところなんだが、俺は彼を軽蔑していても、うなずきと相づちはホンモノだったのだ。
 矛盾と思われるだろうか?
 軽蔑しつつの賛美は矛盾であり欺瞞か?
 そうではないのだ。
 俺は、センセイが、驕慢で、自己顕示欲が強く、遠い過去を自慢すればするほど、その哀れさがむしろ驚異だったのだ。
「このような老猿が実在するんだ!」という、驚きである。

 ある時の話である。
 例の鈍重そうなデザイナーの智恵子が、自分のデザインが初めて商品化されたといって有頂天になっていた。
 それはある会社のパンティストッキングのパッケージで、女性の脚を抽象化したシェイプを重ね、紫系の色彩でグラデーションをつけたものだった。
 今も目に浮かぶ。
 それがデザインとしていいのか悪いのか俺にはわからなかったが、それでも彼女の初仕事をみなでよろこんでいた。
 そこに、まさに折悪しく、センセイが入って来たんだな。
 で、よりにもよって、先制攻撃だ。
「ぬるくて薄い茶なら、要らんからな」ときたもんだ。
 しかし、うれしさのさなかにいた智恵子は、そんな嫌みにもクサったりせず、
「大丈夫です先生。今日はおいしく淹れますから!」と給湯室に立った。
 やがて、茶が出て、センセイはそれを口に含んだ。
 果たして、文句は出なかった。
 智恵子は、その様子を見届けてから、言った。
「先生、聞いて下さい。あたしのデザイン、初めて商品になるんですよ!」
 そうして彼女は、平たい筒状に組まれたパッケージの実物を手に取り、センセイの前に差し出した。
 センセイは、しわしわの手でそれを取ると、一瞥して、
「なあにが、デザインだか……」
 そして、あろうことか、パッケージをぽいっと床に投げ捨てた!

 智恵子は顔を覆って部屋を飛び出していき、デザイナーが後を追った。
 俺もそのときばかりは頭にきたが、それよりむしろ唖然としたというのが正直なところだ。
 反応したのは、泰成さんだった。
 素早く席を立つと床のパッケージを拾いあげ、
「さすがにこれはひどすぎませんか、寺坂先生」
 と、穏やかながら、威厳のある声で言った。
 泰成さんは、長いこと居合道の稽古をしていて、いざとなると肝が据わっているのだ。
 俺が覚えているのは、猿ジイサンの手が、ぷるぷるとわなないていたことだ。
 泰成さんもそれ以上は言葉を重ねず、ジイサンを見下ろしていた。
 そのままの構図で、いくらかの時間が流れた。
 やがて、猿は、
「不愉快だ! 帰る」
 と立ち上がり、出ていった。

 泰成氏はふーっと息をつき、
「ほんとうに、困ったもんだな」と言った。
「あの人は、会社の役に立っているんですか?」と俺は訊いた。
「そんなこと、君は、知らんでもいい」と、泰成さんは席に戻った。

 一時間後くらいだろうか。
 電話が鳴り、俺が出た。
 寺坂だった。
「いやあ、失敗失敗。泰成くんは、まだ怒ってるかねえ」
 ごく一瞬、俺は頭の中で、言葉を整理した。

「センセイ、まさか! 泰成さんは怒ってなどいませんよ。むしろ、センセイを怒らせてしまったと言って、たいへん気にされていました。今は外されていますが、センセイがご心配なさるようなことは何にもありませんよ。ほんとうに申し訳ございませんでした」
「ヘッヘッヘ、そうかい。ならいいんだが。こんど、うまいモナカでも持って、また顔を出すよ」

 泰成さんは、外出などしておらず、自分のデスクにいて、俺をじっと見ていた。
 電話が終わると、すべて合点がいった様子で、ただひとこと、
「タカギ君。君もたいしたもんだな。えらいよ」
 泰成さんがこう言う時、それは揶揄でもなんでもない。

 俺は泰成さんに褒められ、嬉しかった。

 さて、このセンセイのエピソードは枚挙にいとまないが、ここではあとひとつくらい紹介しておこうか。

 センセイの手にかかれば、業界のありとあらゆる人が弟子筋だったり友達だったりすることになってしまうわけだが、その中に俺の知っている人はなかったし、どこぞの会社の会長や社長というのにも、まるで関心がなかった。
 ところがある日センセイ、作家の名前を出したのだ。
「あいつあポン友でねえ、いっしょにいろんなワルサをしたもんさ。あんにゃろは、要領のいいところがあってねえ、今じゃそこそこの売れっ子のつもりだ」
 その時点で俺はその作家を読んだことはなかったし、名前も知らなかった。
 バリバリ理系のセンセイと、作家なんて人のどこに接点があったのか、聞きそびれてしまったが、その名前を俺は心に刻んだ。

 それから、さほど経たないうちに、俺は早稲田通りの古本屋で、その作家の本を発見した。
 仮にM先生としておこう。
 超のつく一流でこそないが、ある有名な出版社から、その随筆集は出ていた。
 鉄道の旅を主体とした紀行文らしく、俺の好みのジャンルではなかったが、これも何かの縁と買い求めた。
 読むと、詩情のあるやさしい文体で、格調もあり、決して退屈な本ではなかった。
 折り返しなどを見るにつけても、他に多くの著作があり、たまたま俺の出会いは古本屋だったものの、新刊も多く出しておられ、固定的な読者をしっかりつかんでいるだろうことが察せられた。
 俺は会社にその本を持参し、泰成さんに見せた。泰成さんはその作家をよく知っていた。
「釣りや登山が好きな人なら、よく知ってる人だよ」
「そうなんですか〜」
 俺は会社の書棚にその本を納め、そのときばかりは、センセイのおでましを待った。
 数日後、センセイが現れた。
 俺は挨拶もそこそこに、すかさずM先生の本を取り出し、
「読みましたよ、M先生の本。有名な方なんですね!」と言ったもんさ。
 すると、うちのセンセイは、立ったまま腰をかがめて前屈み、まるで相手を威嚇するサル山のサルみたいな表情になって、わめき立てた!

「そ、そ、そんなくだらんもんを読んでる身分じゃねえだろ〜!!」
 まさに、絶叫に近かったなあ。

 俺はとにかく驚いて、それでも深く頭を下げて、なんだか知らないが自分の不始末を詫びたんだった。
 結局、まるで隠れキリシタンへの踏み絵のように、センセイはそのM氏の著作が《くだらない本》であることを、俺に宣誓させようとした。
 もとより敬愛する作家でもなかったので、M先生には悪いが、俺は、
「いやあ、じっさい、退屈な本でした」と言わされるハメになった。
「わかればいいんだ」
 と、これは冗談みたいだが、本当の話なのだ。
 
 若さというのは、よく言えば純情だが、悪く言うと無神経なものだ。
 若くて愚かな俺も、5分くらい経つと、なぜ自分の行動がセンセイの逆鱗に触れたのかが判った。
 5分ほどかかったのが、今思うと笑ってしまうんだが。
 で、俺はそのとき、この喩えが正しいかどうか別として、『毒を食わば皿まで』という言葉を自覚しながら言ったもんさ。
「センセイ、僕のような馬鹿者はどんな本を読んだらいいんでしょうか」。

 後日、会社宛に《着払い》の段ボール箱が、東京都近郊のセンセイの居宅から送られてきた。
 開けると、かびくさいにおいが漂い、古ぼけた雑誌がぎっしりと詰まっていて、
「要返却」と書かれた紙切れが載っかっていた。
 雑誌は、電子回路の技術などが詰まった薄い専門誌で、あまりよい紙質ではなかった。
 出版年代は明らかに旧く、小口は経年変化ですすけていた。
 一冊を手に取ると、付箋が挟まっており、そこには寺坂先生の記事があった。
 次の一冊も、他のものも同様だった。
 ダイオードだかトランジスタだか、俺には判らなかったが、学術論文とも言えずエッセーとも言えないそれを、俺は生真面目に読んだもんさ。
 もちろん、内容はさっぱりわからなかったし、言うまでもなく、判らないから困るようなものでもなかった。
 
 今、俺の目の前に、2001年に出版された『高木工務店』という本がある。
 それは今でもいちおう、アマゾンで売られているし、自分のサイトでも《安売り》をしている。
 俺は初めての人にお会いするとき、名刺に加えてそれを差し上げることがある。
 もちろん、愛着も自信もある書籍さ。
 でも、それを人に差し上げるとき、俺はいつも、あの時段ボールを開けた時のにおいが、鼻の中によみがえるような気がするんだ。
 みなまで言いたくはないが、つまりはこう思うのさ。
「オレは今、謙虚なココロで自分の著作を献呈したわけだが、実はこれ、とんでもなく傲慢で不遜な行為じゃないのかな」と、内心でどきどきしつつ、鼻の中にはあのカビのニオイが漂っているわけさ。

 俺はこれまで、多くの美しい雑誌たちにもたくさんの記事を書かせていただいた。しかし、編集者には申し訳ないことながら、俺の部屋にはそれらはストックされていないし、自分のポートフォリオも、俺は持ってない。

 このブログをも含め「作られるモノ」の、いかにはかないことよ、と思う。
 書かれたものは、その瞬間から旧くなる。
 それをぶら下げている自分は、やはり、最低でも1ミクロンくらいは、すすけている。
 
 仕方ない場合も含め、「CRIMSON ROOM」とか「QP-SHOT」とか、俺の口からそれを発するたび、俺の鼻の中は、カビくさいあの日のにおいでいっぱいになっているんだ。
 通じるかな?
posted by TAKAGISM at 00:00| Comment(0) | ササイのことで思い出した
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