2007年02月19日

【第045章】

 《インターフェース》での仕事を終え、あるいは抜け出した俺は、学校へ行くと称してその実、そこらをふらついていることが多かった。
 その頃よくはまり込んでいたのは、江戸川橋と神楽坂を結ぶ赤城坂下にあった一杯飲み屋だ。
 仮に《江戸屋》と呼ぶことにしよう。
 
*つい先だってその界隈を散策した際に、まだ立派に営業しているのを見て、うれしかった。開店時間には少々早く、一杯飲めなかったのが残念だ。

 江戸屋にはいつも、近辺の印刷工や製本の仕事をする人たちが蝟集していた。
 ホッピーという飲み物を知ったのも、そこだ。
 ドーナツ型のビニール椅子にまたがって、何の肉だか判らない串焼きにかじりついた。
 勘定は驚くほど安かったし、顔見知りになったおじさんたちが振る舞ってくれることも多かったので、ふところの心配をする必要はなかった。
 ところで俺はその、寅さん言うところの「労働者諸君」に混ざって、心から楽しんでいたわけではなかった。
 しょうじき自分を一段高いところに置いたつもりで、彼らの生態を《観察》していたつもりなんだから、我ながらあきれる。
 プロ野球を巡ってのたわいない口論。
 お互い別の会社ながらその垣根を越えて《営業の連中》への悪気ない悪態で盛り上がり。
「酒が飲める酒が飲める酒が飲めるぞ〜」なんていう古くさい歌が湧き起こる。
 様式化されたお芝居のような夜ごとだった。
 俺はドストエフスキーの小説の一節なんかを思い浮かべながら「労働者諸君の酔態を観察しているつもり」だったが、そうでもしないと、自分の心の置き所が判らなかったのだ。
 今思えば、《自分のココロ》なんてものは、酒場の中では、タバコのケムリに混ぜ込んでしまえばいいだけの話なんだけどね。
 
 そんな江戸屋で、俺はある若い男と知り合った。
 他の多くと同じく、作業着を着ていて、時代がかった黒いセルフレームの分厚い眼鏡をかけていた。
 年齢は俺よりいくつか上だったと思う。
 俺は彼に《革命家》というあだ名をつけたが、本名は小松君と言うのだった。
 小松君はやはり近くの印刷工場で働いているのだった。
 基本的には物静かな男で、先輩や同僚たちと店に入ってくる時には、青白い顔をうつむけて黙っているのだが、酒はよく飲んだ。
 酔うとすぐに真っ赤になった。
「おまえは理屈っぽいのがいけねえ!」と、よく先輩にからかわれていたが、そんな時にはムキになって、つばを飛ばしながら反論するのだ。
 そんな様子が、一昔前のサヨクの革命家を思わせたので、俺が先に勝手につけたあだ名なのだった。
 ある時彼は、一冊の本を手にしていた。
 油染みたカウンターにばさっと置かれたその本を、見るともなく見ると、サルトルの「実存主義とは何か」という著作だ。
「おや?」と思った。
 俺は生意気な高校生時代に、友人らといっしょにその本を読み、フランス語の原題を覚えただけでいっぱしの文学者・哲学者気分になったもんだった。
 原題は、今は、忘れた(笑)。
 とにかく、実存主義っていうのは「イグジスタンティアリズム」というのだ、たしか。
 そのとき小松君は俺の隣の席で、仲間たちの議論から外れたかたちで、ホッピーかなんかを飲んでいた。
 
 青臭い話だが、俺は小松君に、暗号で問いかけたんだ。
「アンガージュしてる?」

 小松君は、はっとした顔を俺に向けた。眼鏡の奥の目が、ギョロギョロしてる。
 一応いわずもがなの解説をしておくと、アンガージュってのはフランス語で、英語で言うとエンゲージ……engageと綴るはずだ(辞書を引くのが面倒なので、間違っていたら教えてほしい)。つまりは普通にとれば、
「婚約してる?」と訳して間違いないと思う。
 けど、実存主義……中でもサルトルにかぶれたことがあればこれは、実存主義の用語で「(自己)投機」と訳されるんだな。
 まー、そんなこたーどうでもいいんだけど、かいつまんで言えば、
「自分の人生に対して、主体的に意思決定していますか?」ってなことになる。
 もっとも、俺は小松君に、それが聞きたかったんじゃなくて、
「なかなかテツガクな本を読んでいらっしゃるじゃないですか」ってなほどの挨拶だ。

「アンガージュしてますよ」と、小松君は答えた。
 それが彼との出会いだ。
 そのひととき、周りの喧噪は俺たちのBGMであり、カウンターの内側から立ち上る脂煙は、俺たちのスクリーンだった。
 小松君は熱烈にテツガクや思想を語り出し、俺は自分の知識と解釈の範囲でそれにツッコミを入れた。
 今思えば、幼稚な言葉のプロレスごっこにすぎないと思うが、ともかくも、彼はそうした会話にかつえていたと見え、かなり興奮していた。
 
「おいコマツ〜、そろそろ行くぞ〜」
 と彼の連れたちが席を立った時も、
「いや、ボクはもう少し飲んできますんで」と答え、俺へ言葉を続けるのだった。
 作業着の先輩格が俺に、
「すいませんね。こいつ、理屈っぽいでしょう?」と、
「いえいえ、ボクも理屈っぽいので気が合っちゃったようです」
 その夜、俺たちは店が看板になる時刻まで、言葉のプロレスを楽しんだ。
 蛸山が消えてからというもの、俺もまたそうした話を交わす相手がいなかったのだ。

 小松君は俺の勘定まで払ってくれようとした。
「いや、それじゃ公平じゃないよ。またどうせ会うんだし」
「だけど、キミは学生で、ボクは社会人だからさ」
「オレも給料はもらってますよ」
「じゃあ、こうしよう。坂を下りたところに、まだまだやっている店があるから、そこに河岸をかえよう。で、タカギ君はそこを払ってよ」
 
 俺たちは江戸川橋商店街の一角のヤキトリ屋で、飲み直した。
 ホッピーに飽いた喉に、生ビールがとてもうまかったのをありありと思い出す。

 聞けば小松君は、ある大学のドイツ語科を中退していた。
 学生時代には「オチケン」こと、落語研究会に属していたそうだ。
 あるココロザシはあるのだが、今はその準備期間として、働きながら雌伏しているらしい。
 ニーチェやヘーゲルを原書で読めるらしい。
 今は「仮の姿」らしい。
 水道橋の1間のアパートで、婚約済みの女性と同棲しているそうだった。
「だから、さっきは驚いたんだ。キミが言ったアンガージュマンは、あながち外れじゃなかったのさ」 
 
 この時に感じた気持ちを、正直に話そう。
 俺は、自分のデュープを見たような気がした。
 デュープ……今も使われることはあるのだろうか? 複製されたフィルムを表す印刷用語だ。
 コピーと言ってもいい。
 ただし、寸分違わぬデジタルのコピーではなく、光学的に複製されたコピーだから、当然、オリジナルより劣化している。
 デュープのデュープは、さらに劣化する。
 それぞれの違いは、よく見ないと判らないものの、オリジナルとデュープのそのまたデュープでは、明らかに品質が違う。
 彼と俺の、優劣を言いたいんじゃない。
 ただ、構図的にあまりに似通ったものを感じて、少しだけそら寒い感じがした。

 俺は俺、自分は自分と思っていた自分が、それにずいぶん類似しているような、あえて言えば、数年先の自分のような人物に出会う。
 俺は、寒く感じる。
 しかし小松君は何を見ていたのだろう、感じていたのだろう。
 テーブル越しに俺の手を握っては、
「君と会えたのは、ボクが今日、行くかどうか迷った江戸屋に自分をアンガージュしたことの結果だ。よかった!」と繰り返した。

 俺は退屈していたわけでもないし、同じような言葉を返したんだと思う。
 しかし、体からたましいが離れたみたいに、店の天井からその小さなテーブルを見下ろしている、もう一人の俺がいたような気分だった。

「さて、数年後に、オマエはやはりこの町で、誰かと串焼きをかじっているかい?」

 小松君がまだ結婚できないのは、経済的理由があるからだそうだ。
「でもしかし」と彼は言った。「サルトルとボーボワールの契約結婚と同じで、ボクらは事実上の夫婦でさ」
 同じなのかどうなのか、今もって判らないが、俺の頭に浮かんだのは、水道橋にあるという彼らの小さな巣のことだった。
 そして俺は、祥子を思い出した。
 小松君は、すでに俺に心を開いていたので、その《事実上の結婚生活》をつまびらかに話し出した。
 彼が話したのは、奥さんとなるべき人の職業や、経済状況の話だったんだと思う。
 だが、それとはぜんぜん別に、俺の頭には、窓辺に飾られた緑色の小瓶と、そこに挿された小さな花が浮かんだ。
 ちゃぶ台の上の急須や、煎茶のだしがらが浮かんだ。
 炊飯器の湯気や、そこにかぶせた清潔なフキンが浮かんだ。
 一組の薄っぺらい布団が浮かんだ。

「さあ、そろそろ行きませんか?」と俺は言った。
「名残惜しいけど、明日もあることだしね」と小松君は言った。

 握手して、別れた。
 俺は江戸川橋でタクシーを捕まえ、高円寺へ急いでもらった。
 その夜の、ぜんぶの出来事……とは言っても、小松君がそのほとんどすべてなんだが……それらをぶっちぎって、俺は祥子を欲していた。
 タクシーの料金メーターは、ヤキトリ屋での勘定を、どんどん超えたが、まったく気にならない。
 タクシーのメーターは、つまりは俺の欲情に比例して、赤い数字を上昇させて行った。

 窓辺に飾られた緑色の小瓶と、そこに挿された小さな花。
 ちゃぶ台の上の急須や、煎茶のだしがら。
 炊飯器の湯気や、そこにかぶせた清潔なフキン。
 一組の薄っぺらい布団。

 それらに俺が小さなシアワセみたいなものを感じて、頭の中に何かが灯ったと思われたのなら、やはり俺は下手な書き手ということになる。

 それらは、俺が一番いやなものだった。
 いちばんおそれているものだった。

 だのに……なんのことはない。
 一組の薄っぺらい布団を思い浮かべ、エロスに火がついただけのことだ。

 やりたかった。
posted by TAKAGISM at 00:00| Comment(0) | ササイのことで思い出した
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