2007年02月24日

【第050章】

 そして俺はそれっきり《ひびき印刷》を辞めた。
 辞表を出したわけでもなければ、きちんと挨拶をしたわけでもない。
 そのまま事務所を出て、戻らなかった。
 何冊かの本などを除けば私物もなかったし、いつかはこうなるような予感がしていた。

 その日の足取りは記憶にないが、高円寺に帰ったことだけは覚えている。
 家庭を持った男が長年勤めた職場を辞めたわけでもなし、少々長いこと続けていたアルバイト(実際にはそのとき「契約社員」という身分だった)を、勝手に逃げ出しただけだから、祥子にも、特に何を伝えたわけでもなかった。

 数日間、彼女の部屋に籠もっていた。
 祥子は、昼間はレッスンや撮影に出かけていくことが多かった。

「今日は学校へは行かないの?」
「たぶん行かないな」
 そんなやりとりがあった。
「じゃあ、どこへも行かないんじゃない」
「ああ、そうだな」

 その頃、祥子の部屋にいくらかの着替えはあったにせよ、俺はそれ以外、祥子の水やガスを使って入浴し、彼女の電気で本を読んでいたことになる。
 本と言えば、祥子の部屋から抜け出すきっかけになったのが、その「本」だった。
 彼女の書棚はもともと貧相なものだったが、俺の知的好奇心を惹くようなものはほとんどなかった。
 近所を探せば少しはまともな書店もあったのかもしれないが、その当時ですら俺は近辺の地理には暗く、あまり出歩きたくなかった。
 タバコを買いに行くときくらいは、最短距離を出歩いただけだ。
 俺は自分の書棚の本たち、あるいは大森西友の中にあったブックセンターが恋しくなり、ある日、祥子の部屋を出た。

 寮に戻ると、たくさんの電話記録があった。
 N島やその他の友人から何通か、他はほとんどが泰成さんからのものだった。
 泰成さんには、高円寺のことは話していなかったので、俺の帰る先と言えば大森だと思ったのも無理はない。
 驚いたのは、部屋に戻ったときだ。
 ドアに、折りたたまれた紙が挟まっていた。
 開くと、泰成さんからの手紙だった。
 寮の電話記録簿の紙を使って書かれていた。ということは、玄関の受付カウンターの上で書いたものかもしれない。
 
 高木君
 君が出ていってしまって、その後なんの音沙汰もないので、一同心配している。
 寮にも戻っていないようだとのことで、なおさら心配になり、一度様子を知ろうと、こうして大森まで来てみたが会えなかった。
 君のことだからたくましく元気でやっていることとは思うが、やはり心配だ。
 寮生の方にこれを託すので、一読したら、ぜひとも一報、電話だけでもいただけると安心する。

 P.S. 寺坂先生には、あの後、僕からも厳しく申し上げた。その後はお見えになっていない。蛇足かも知れないが。
 
  泰成


 俺は娯楽室に降りていって、ピンク電話から会社に電話をかけた。
 泰成さんが出て、心から安心したという声を出した。

「よもやそんなことはないと思ったけど、もしもの場合を心配したんだぞ」
「申し訳ありません」
「で、どうするんだ?」
「はい。ケジメがなくて、申し訳ありませんでしたが、やっぱり……」
「やっぱり?」
「辞めさせていただきたいと思います」
「そうか。残念だけど仕方ないな」
 慰留の言葉はなかったが、泰成さんを落胆させたのはわかった。
「すみません」
「O村さんには、僕から話しておく。でもとにかく、一度は会社に顔を出せよ。すぐにではなくてもいいから」
「はい。そうしなければいけませんね」
「だって君、もらうものもらってないだろう?」賃金のことだ。「こんなことは僕の口から言いたくないが、今誰もいないから言おう。ちょうど君が居なくなったタイミングで、ささやかなボーナスが出たよ。O村さんに挨拶するとき、そのことも言うといいと思うよ」
 細かい気配りに感謝しながら電話を切った。

 俺はそれからの数日、寮生たちと久々の時を過ごした。
 駅裏の居酒屋にも行ったし、深夜の牛丼も食った。
 キネカで映画を観たし、読書にも浸りきった。
posted by TAKAGISM at 00:00| Comment(150) | ササイのことで思い出した